天神地下街の「石積みの広場」は、かつて福岡城と天神の間を東西に流れていた幅50mの堀「肥前堀」の記憶を今に伝えています。明治期の低湿地・土地利用分類レイヤーを重ねながら、地図好き・歴史好きの開発者が、その痕跡を追いかけてみました。
正直に告白すると、私は根っからの地図好き・歴史好きです。仕事を離れても、古地図と現在の地図を重ね合わせて「ここ、昔は何だったんだろう」と考えるのが趣味のようなものになっています。今回は完全に個人的な寄り道から始まった話ですが、MAPRISEの機能ともつながる面白い発見があったので、開発チームのブログとして書かせてください。
きっかけは、天神地下街の石積みの壁
天神地下街を歩いていると、7番街から8番街にかけて、壁がヨーロッパの城壁のような石積みになっているエリアがあります。通称「石積みの広場」。何度も通ったことがある場所なのですが、あるとき足を止めてよく見てみると、傍らに小さな案内板がありました。

案内板にはこう書かれていました。

この広場はヨーロッパの城壁をモチーフにしたものです。また、「肥前堀」の遺構が確認されていることからその石垣のイメージも重ね合わせております。
「肥前堀」。聞いたことのある名前でしたが、詳しくは知りませんでした。調べてみると、これがなかなか面白い話だったのです。
肥前堀とは何だったのか
肥前堀は、江戸時代、福岡城の築城にあわせて造られた幅50mの堀で、現在の天神のど真ん中を東西に横切っていました。当初は南北の両岸に石垣がなかったのですが、大雨のたびに土手が崩れる被害が続いたため、文化8年(1811年)に石垣が築かれたと伝えられています。
名前の由来も興味深いものでした。「肥前」とは、隣国・肥前佐賀藩のこと。関ヶ原の戦いで西軍についた佐賀藩の鍋島家は、本来なら厳しく処分されてもおかしくない立場でしたが、福岡藩の黒田如水の助言もあって家康に赦されました。その恩義から、佐賀藩は福岡城の堀普請、すなわちこの肥前堀の工事を引き受けた、というのです。城と城下町の歴史の裏には、こういう藩同士の貸し借りが刻まれているのだなと、単純に感心してしまいました。
その後、肥前堀は明治43年(1910年)、産業博覧会の開催にあわせて埋め立てられます。現在の福岡市役所庁舎の南側半分は、この肥前堀の跡地の上に建っているのだそうです。天神地下街の「石積みの広場」は、後の開発工事の際にこの肥前堀の石垣の遺構が実際に確認されたことを受けて、ヨーロッパの城壁のイメージと重ね合わせてデザインされた、というわけです。地下街を何気なく歩いていた足元に、江戸時代の堀の記憶が眠っていたことになります。

MAPRISEの古地図レイヤーで、同じ場所を見てみる
ここからが、MAPRISE開発者としての本題です。この肥前堀があった一帯を、MAPRISEの分割画面機能を使って、2つの古地図レイヤーで見比べてみました。

左側は、航空写真に「明治期の低湿地」レイヤーを重ねた画面です。このレイヤーは、国土地理院が公開する明治期の旧版地図をもとに、当時湿地・水田・河原などの低湿地だった範囲を示すもので、田(水田・陸田)・泥地・河川・水路・湿地・草地・深田・ヨシ/茅といった区分が色分けされています。かつての低湿地は地盤が軟弱で液状化しやすい傾向があるため、地震時の地盤リスク評価にも活用できるレイヤーです(主要な平野部のみの提供です)。
右側は、通常の地図に「土地利用分類(明治期)」レイヤーを重ねた画面です。福岡城跡・舞鶴公園のあたりは公共施設・特殊用地(紫)として、その東側の天神一帯は建物用地・市街地(ピンク)として塗り分けられています。今の天神の賑わいの土台に、明治期にはすでに市街地としての姿があったことが、色の分布からうかがえます。
肥前堀そのものはこの2つのレイヤーの年代(明治期)よりもさらに古い江戸期の遺構ですが、城下町の水利・地形の骨格がこの一帯にどう刻まれてきたかを、地図を重ねることで少しずつ読み解けるのが、こうしたレイヤーの面白いところだと感じています。
「昔はどんな場所だったか」を知ることの価値
古い地図と今の地図を重ねて見ることは、単なる歴史好きの道楽で終わる話ではありません。ある土地が、かつて水田だったのか、湿地だったのか、あるいはすでに市街地だったのか。その土地の成り立ちを知ることは、今そこに立つ建物や暮らしを考えるうえでの、静かな手がかりになります。
MAPRISEでは、こうした古地図レイヤーに加えて、地質図や地盤に関するデータも提供しています。ある地点について、過去にどんな土地だったか(定性的な情報)と、地盤の強さや災害リスクの数値(定量的な情報)の両方を重ねて見られる。さらに、AIチャットに「この場所の地盤リスクはどうですか」と尋ねれば、こうした情報を踏まえた回答をAIがサポートする仕組みも用意しています。
石積みの広場を何気なく歩いていた日常が、地図を1枚重ねるだけで、350年以上前の堀の記憶につながる。そんな体験を、これからもMAPRISEを通じてお届けできればと思っています。同じように地図から歴史を掘り当てた話としては、大宰府を守った土塁「水城」を追いかけた回もあわせてどうぞ。
本記事の肥前堀の歴史的経緯は、福岡市が公開する情報および天神地下街「石積みの広場」現地案内板の記載に基づいています。古地図レイヤー(明治期の低湿地・土地利用分類)は国土地理院・国土交通省の公開データを加工して作成しており、位置精度を含め、実際の地形・境界と差異が生じる場合があります。
出典:福岡市「肥前堀と石積みの広場」、天神地下街現地案内板(平成17年設置)、国土地理院(明治期の旧版地図・土地分類基本調査)
タグ: #肥前堀 #福岡城 #天神地下街 #明治期の低湿地 #地盤
他言語のシェアテキスト (例外運用向け)
通常は上の Quick share をご利用ください (X 系は日本語、LinkedIn は英語に固定)。下の 4 ペインは「英語記事を X で日本語紹介したい」「日本語記事の LinkedIn 投稿を日本語で出したい」等の例外運用に使えます。各テキストはコピー編集してから投稿することも、そのまま投稿画面を開くこともできます。
📝 天神の地下に眠っていた「肥前堀」を、MAPRISEの古地図レイヤーで追いかけてみた 天神地下街の「石積みの広場」は、かつて福岡城と天神の間を東西に流れていた幅50mの堀「肥前堀」の記憶を今に伝えています。明治期の低湿地・土地利用分類レイヤーを重ねながら、地図好き・歴史好きの開発者が、その痕跡を追いかけてみました。 https://maprise.jp/ja/blog/hizen-bori-history/ #肥前堀 #福岡城
🆕 新しいブログ記事を公開しました。 《天神の地下に眠っていた「肥前堀」を、MAPRISEの古地図レイヤーで追いかけてみた》 天神地下街の「石積みの広場」は、かつて福岡城と天神の間を東西に流れていた幅50mの堀「肥前堀」の記憶を今に伝えています。明治期の低湿地・土地利用分類レイヤーを重ねながら、地図好き・歴史好きの開発者が、その痕跡を追いかけてみました。 👉 詳しくはこちら: https://maprise.jp/ja/blog/hizen-bori-history/
📝 Chasing the Hizen Moat sleeping beneath Tenjin, with MAPRISE's old-map layers The "Stone-Paved Plaza" in the Tenjin underground mall quietly carries the memory of the Hizen Moat — a 50-meter-wide canal that once ran east-we… https://maprise.jp/en/blog/hizen-bori-history/ #HizenMoat #FukuokaCastle
🆕 New on the MAPRISE blog. 《Chasing the Hizen Moat sleeping beneath Tenjin, with MAPRISE's old-map layers》 The "Stone-Paved Plaza" in the Tenjin underground mall quietly carries the memory of the Hizen Moat — a 50-meter-wide canal that once ran east-west between Fukuoka Castle and Tenjin. A map-and-history-obsessed developer went chasing its traces, overlaying the Meiji-era wetland and land-use layers along the way. 👉 Read the full post: https://maprise.jp/en/blog/hizen-bori-history/ #HizenMoat #FukuokaCastle #Tenjinundergroundmall #Meiji-erawetlands #Ground